昨年9月11日のアメリカを標的とした同時多発テロから1年が過ぎました。それはハイジャックした旅客機による自爆テロという歴史上例を見ないテロでした。テロを指揮したとされるウサマ・ビンラディンは、米軍の執拗な捜索にもかかわらずいまだに生死不明ですし、テロ組織アルカイダはアフガニスタンから逃れて、世界各地に分散していると言われています。
そして今、アメリカは対テロ戦争と同時に、「世界で最も危険な男」とされるイラクのフセイン大統領を打倒するという構えを見せています。それはフセインが核兵器や生物兵器などの大量破壊兵器を開発保有し、それを使う可能性があると考えているからです。生物兵器が何らかの手段でアメリカに持ち込まれ、それがばらまかれたらどうなるか、その恐怖が現実のものになる前に手を打たねばならないという論理です。
昨年、ブッシュ大統領はこう演説しました。「われわれの側につくか、それとも悪の側につくか」。この問いかけは、各国に対してプレッシャーをかけるものでしたが、それでも答えは明白でした。どの国も、世界貿易センタービルで数千人もの犠牲者を出したテロを容認することはできなかったからです。いつもは優柔不断で、他国の様子を見て姿勢を表明する日本ですら、いちはやく小泉首相が「絶対に許されない行為」と言明し、アメリカの側につくことを表明しました。
テロに対する戦いでは、明らかに「大義」はアメリカの側にあったのです。テロはいつも「悪」であるというわけではありません。もともとテロというのは、ある政治的目的のために行われる暴力です。ビンラディンの政治的目的は、アメリカを倒すことではなく、アメリカを(少なくともアメリカ軍を)中東から追い出すことだったはずです。これは湾岸戦争でサウジアラビアが米軍に基地を提供したことに対する宗教的な(イスラム教の聖地メッカがあるサウジに異教徒の軍隊を入れることは許されないという)反発でした。
だからアフリカでアメリカ大使館の爆破事件を起こし、またイエメンで米海軍駆逐艦に対する自爆テロを行ったのです。標的がアメリカ政府の施設や米軍である限り、アメリカの報復も限られたものにならざるをえませんでした。アフガニスタンにあるテロリストの訓練キャンプやスーダンの化学兵器工場(とされた製薬会社)にクルーズミサイルを撃ち込むことしかできなかったのです。それが単独でできるぎりぎりの軍事行動だったからです。
しかしニューヨークにある民間の施設にハイジャック機を突っ込ませ、その結果数千人もの民間人が犠牲になったために、大義の振り子は一挙にアメリカに振れました。つまりビンラディンが持っていたはずの「イスラムの大義」は、皮肉なことに世界貿易センタービルの崩壊とともに崩れ去ったのでした。その証拠に、パレスチナ自治政府のアラファト議長ですら、テロを非難する声明を出さざるをえなかったのです。
それでもイラクのフセイン政権打倒は、対テロ戦争とは違い、アメリカに明らかな大義があるわけではありません。もともとイラン・イラク戦争の時、アメリカはイランの革命政権に圧力をかけるべく、フセイン政権に肩入れしていました。湾岸戦争の時ですら、首都バクダッドに米軍を進攻させることはできませんでした。そんなことをすればイラクの一般市民にさらに大きな犠牲が出て、反イラクでまとまっていたアラブ諸国がたちまち離反し、湾岸戦争の大義が失われたでしょう。現在のイラクがいかに危険な存在であるとしても、アメリカが先制攻撃をかければ、アラブ諸国との友好関係が重大な危機に瀕するでしょうし、そればかりでなく国益としてのエネルギー政策にも大きな影響が出ることは火を見るより明らかです。
このようなときに、日本がどのように行動すべきかはきわめてむずかしい選択です。しかしアメリカの対テロ戦争で明らかなように、国際社会の平和と繁栄を図るという大義がどこにあるのか、ということが最も重要なポイントになると思います。実際、アメリカの同盟国の首脳が次々に対イラク開戦に不支持を表明しています。最もアメリカに近い立場を取るイギリスでも、国民の間ではイラクとの戦争には反対という空気が強いようです。アメリカ国内ですら、ブッシュ大統領の身内である共和党関係者から慎重論が出ています。日本はこのような情勢を冷静に分析するだけでなく、むしろ国際世論をリードするような論理で、イラクを攻撃する正当性があるのかどうかをアメリカに問うべきだと考えます。小泉首相が今度の訪米で果たしてそれをはっきり言えるかどうか、大いに注目しなければなりません。
1990年を境に、それまでの米ソ冷戦という構造が崩れ去りました。それは二極支配が変わったということだけでなく、資本主義対社会主義というイデオロギー対立の時代が終わったということでもあります。そこで世界は文明が対立する時代になるというのはハンチントンの「文明の衝突」という有名な論文ですが、今のところ世界の対立軸は「文明」ではなく、「グローバリゼーション対反グローバリゼーション」になっているように見えます。その対立点は、グローバリゼーションが世界の人々を幸せにするのか、それとも豊かな者がますます富み、貧しき者をますます搾取するのかというところにあります。
この貧富の格差は、ある意味でテロの温床にもなっています。そうであれば世界で2番目に豊かな(はずの)日本は、どうすれば世界が豊かで平和になるのか、そのために(軍事的ではない)どのような貢献ができるのか、世界をリードしていく論陣を張ることが必要でしょうし、それが日本の存在価値をアピールしていくことになると思います。そうでなければ、結局イラク攻撃が始まる時に慌てて自衛隊を派遣するための法整備に右往左往するといった情けない事態になってしまうかもしれません。こうした事態に陥らないためにも、私たち国民一人ひとりが真剣に、そして慎重に9.11後の世界について考えなければならないのです。