ホーム > 佐々木かをり対談 win-win > 第53回 細川佳代子さん

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特定非営利活動法人スペシャルオリンピックス日本 理事長
細川佳代子さん
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3メートルの波に立ち向かったサーファー時代
- 佐々木
え? 元祖サーファーだったんですか?
- 細川
3メートルクラスの、本当に、年に1回か2回しか来ない、すごい高波に挑戦するのは、私くらいだった。
- 佐々木
すごい。
- 細川
2回くらい死ぬかと思ったわね。波に飲まれて。
- 佐々木
私、そういった命がけの挑戦は私はしないですねえ。社会的や人生の面での挑戦はいくらでもしますけれど。波は怖いですね。3mの波はね。
- 細川
泳ぐのは得意で、もぐるのも得意でしたから。あのね、板ごともぐるっていうことが、女性はできなかったんです。だから、崩れた波をもぐって、沖へ出ることができないの。女は。肺活量がないでしょう。もぐるっていうのも、長いこともぐれない。
大きな波が崩れてくるから、板持ってそれをずーっともぐっていかなきゃならない。そうすると次の波がもうわーってくるから、またもぐる、もぐる、もぐるで200mか300m沖まで行くのが、女性はできなかったの。
- 佐々木
それが、できた。
- 細川
私ひとりができたの。
- 佐々木
何歳のときですか?
- 細川
中学から高校にかけて。それで、波にまかれて2回、死ぬと思ったの。で、もう私が大学に入った頃に、大きな波が立ったときには、赤帽さんが見張りの監視台を作って、水泳禁止になっちゃうわけ。そうすると中に入れない。それだから、面白くなくなっちゃったわけね。それで海に行かなくなって。
- 佐々木
それで、荒波は得意なんですね、きっと(笑)
- 細川
そうなの。どーんと来たら、行けーって。
- 佐々木
どんな波が来ても、次から次へと大丈夫。どんどん沖へ行く、っていう。
- 細川
小さいときから、それが当たり前にしてだんだん育っていったっていう。だから、卒業して就職して海外の駐在員だったときも、誰だって絶対引き受けないのに。今から40年近く前で、まだドルが自由化されていない時代に、駐在員としてひとり会社から派遣されてね。誰一人知り合いがいなかったヨーロッパへ横浜から船に乗りソ連経由で一人旅をしたの。
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