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馬越恵美子さん
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でも私には「生きる」という選択肢があった
- 佐々木
先生は39歳で大学院に行かれたということですが、これは同時通訳などをされているときに、「経営がおもしろいぞ」と思って勉強しようと思ったから。
- 馬越
はい。それから、ちょっと個人的なことでは、36歳のときに、会社経営をしておりまし夫が癌で先立ってしまいまして。本当にいい夫だったんです。それで5歳と3歳の子どもがいたので、通訳もよかったんですけれども、もう少し安定した仕事もしたいという気持ちもあって迷っていたところ、上智大学の鶴見和子先生に偶然電車の中でお会いして、「あんた、できるでしょ。やらなきゃダメよ」って励ましていただいて。もう、鶴の一声で。
私はポジティブに生きていたんですけど、やっぱり未亡人っていうのは社会的に非常に弱い立場なんです。あと、癌患者の妻っていうのは、少し責めを負うんです。「あなたが仕事をしていたから、夫が病気になったんじゃないか?」という。
- 佐々木
えっ? そんなことがあるんですか?
- 馬越
ありました。
- 佐々木
それは、ごめんなさい。私は全く想像しませんでした。
- 馬越
ありました。それは医者からの言葉にもありました。日本の医療はもっと患者の家族に配慮すべきだと思います。夫が病気になると妻は罪悪感を感じる。子どもが病気になったときにも、感じることがいろいろありますよね。仕事をしていると、多少ありますよね。私は、それは社会的心理の中にあると思っているんです。
- 佐々木
自分で感じている以上に、外からも何かを感じる、という?
- 馬越
はい。自分もやっぱり何かを感じるし、思っていたんです。で、それがあって、少し弱くなっちゃって、自信がなくて、本当に巷をさまよったことがあります。新宿歌舞伎町を。蒸発したいと思って。これは嘘ではないです。もう消えたいと思ったんです。この苦しみから逃れたいと本当に思いました。別世界に行きたい、誰も知らないところに行きたい、と。これは本当に思いました。
- 佐々木
闘病はずいぶん長かったんですか?
- 馬越
1年です。「家族4人で死ぬ方法もあるんだよ」って主人も言ったんです。「楽になる方法はある」って。ちょっと心を動かされました。でも、そのときに思ったのが、やっぱりAFSの強さ、留学です。やっぱり「選択」があるんですよね。主人は末期ですから、死ぬことしかなかったんです。でも私には「生きる」という選択肢があった。子ども達にもあるわけですね。じゃあ、生きてみようかな、と。
- 佐々木
それは、何かきっかけがありましたか。新宿の歌舞伎町をフラフラと歩く中で、「生きる」を選んだきっかけは。
- 馬越
子どもの姿がチラチラ頭に浮かびましたね。それで「ちょっと家に帰ろう」と思って、帰りました。運転していても、涙でくもって運転できない、みたいな感じでした。子どもの運動会のときも、ビデオを録りながら、トランポリンで跳ねている姿を見て、涙で目がかすんで、しゃがみこんでしまいました。ごめんなさい、こんな話をして。でも、これが自分の原点なのでね。
私は、「もう一生、笑うことはない」と言ったんですが、夫は、「いや、40代、50代は、きっとすごく輝かしく、おもしろくなるから、僕は全く心配していない。二人の子どものことも全く心配していない。ずっと見守っているからね」って言っていました。本当にそのとおりになりましたね。
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