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宮嶋泰子さん
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「君が作ればいいじゃない」って、サラッと言ってくださった
- 佐々木
それにしても、ニュースステーションに採用していただいた頃、私にとってはとにかく宮嶋さんのスタイルが、ものすごく新しくて光っていたんです。ご自分で、お一人で、ディレクター・レポーターをするようになったのは、いつ頃からですか?
- 宮嶋
私は1977年に入社をして、5年目ぐらいからそのスタイルをとり始めました。ちょうど松中英忠さんという方と出会ったんです。「こちらデスク」という番組で筑紫哲也さんをテレビに引っ張り出してきた方なんですね。その方がプロデューサーをしている番組で、、「今は何をやっているんだね?」って聞かれたんですね。「バレーボールの日本リーグで日本全国を走り回っております」という話をしたら、「じゃあ、君はバレーに詳しいんだね、だったら、バレーで何か、自分でドキュメンタリーを作ったら? 詳しい人がやればいいんだよ」っておっしゃってくださったのです。それがきっかけなんですよね。
- 佐々木
アナウンサーとして仕事をしていたときにですか?
- 宮嶋
はい。その番組では司会進行役をしていました。入社5年目で最初に自分がディレクションをした番組は、何と25分番組なんです。
- 佐々木
すごい(笑)。
- 宮嶋
すごいでしょ。普通は短い1分、2分のものから作るのに、いきなり長尺でした。それが、東京オリンピックの東洋の魔女達が再び集まる、彼女たちは今、何をやっているのかっていう特集企画だったんですね。で、その次に作ったのが、バレーボールの高3トリオっていうもの。当時、大谷・廣・宮島という3人トリオを取り上げた企画で、中田久美ちゃん達と同じ年代なんですけど、この企画も長かったですね。1時間のスポーツ情報番組の中の特集という形で、20〜25分という、とてつもなく長いものを、いきなり作らされたという形ですね。
- 佐々木
それは、アナウンス部在籍中に、ですよね?
- 宮嶋
はい、ずっと所属はアナウンス部です。週末にはスポーツ中継に出かけて、番組の司会をしながら、一方で制作者の仕事をする形ですね。
- 佐々木
それは、あまり、聞かないですよね。
- 宮嶋
ありえないですよ。そのプロデューサーが辣腕で、新聞の方だった筑紫哲也さんを、「いいじゃないですか。あなた、この事に詳しいんですから、テレビでしゃべってくださいよ」って誘ったわけで、あまり垣根を作らない人だったと思うんですね。だから私にも「君が一番詳しいんだから、君が作ればいいじゃない」って、サラッと言ってくださった。
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