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フリーダイビングトレーナー・アプネアフォトグラファー
菅原真樹さん
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超豪華客船のクルーディレクターに転職
- 佐々木
それがハワイに移り住むずいぶん前のこと。
- 菅原
そうですね。職場で都会型のダイビングの経営学だとか、そういったものを少し勉強させてもらって、その後、ちょうどうまい具合に、客船のオセアニックグレイスという非常にコンパクトで超豪華な船のがクルーになれたのです。お客様120名に対して70名のスタッフでサービスをするっていう。
私はひそかに履歴書を送って、東京へ出てきて面接を受け、かなりの応募者の中で即決で選んでもらいました。
- 佐々木
なんていう役職でですか?
- 菅原
クルーディレクター。当時、日本人はまだ誰もなっていない職業だったんですね。他の外国の豪華客船だと、キャプテンがいて、機関長がいて、その下くらいのクラスのオフィサーですね。お客様を総合的に全体的に見て、乗られる前から下船されるまでの間の、すべてのケアをする。
- 佐々木
今までの略歴とまた全然違うでしょ。それをなぜ、先方は即決で菅原さんを選んだのでしょうか。
- 菅原
うーん、まあ、面接は本当にものの10分にも満たなかったと思うんですけどね。でも、「君は人を楽しませることができるか」と真剣に聞かれたんです。自信をもって「はい」と答えて。まあ、略歴はもう皆さんにお出ししているわけだから、そこでやはり総合的な能力を必要とするということでね。
マリンスポーツもプロ級の能力。それから、音楽のエンターテインメントとでは、芸術大学ですから、プロフェッショナルなエンタテイメントとしての事も知っていて、きちんとケアできる。それから、遊びをクリエイトしていく能力、っていうのかな。
- 佐々木
それで船に乗ることになった。
- 菅原
はい。
- 佐々木
で、スポーツクラブは辞めて、船に乗ってハワイに行っちゃったんですか(笑)?
- 菅原
まだそこはね、封印された状態で入りました。船は日本や他の方面の外国をめぐることが多かったのです。4年間、船の勤務をしました。まあ9ヶ月はずーっと船の中で生活をし、休暇が3ヶ月とか。実際、私は1ヶ月半くらいで戻っていましたけど、まあそれを繰り返してましたね。
でも船は縦割りの社会がそのまままだ残っているものですから、私の父親くらいのクラスの人たちが、狭い部屋で寝泊まりをしなければならないのに、私はちゃんとした個室を持って、デスクもあって、ベッドもあって、ソファもあって、そういう部屋を与えられていました。
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