
軽い絶対音感があって楽しいことは……(ちょこばなな・東京・31歳)
私は軽い絶対音感があります。軽い、というのは、意識して聞くとドレミ音が拾えるけれど気にしなければただ単に「音」として聞き流せる、ということです。逆に友人は立派な絶対音感があって、サイレンや鼻歌など何でもドレミで聞こえ、またそれがずれている(!)と直したくなるので疲れるそうです。
絶対音感は、小学1年生のときに週1回ほどピアノで和音の音あてを練習したときに付きました。音感があってよかったことといえば、TVで聞いた曲などをピアノで弾いてみることができる、という趣味程度なのですが、それでもけっこう楽しいですよ。
鑑賞する側なら必要ない(つっしー・千葉・パートナー無・27歳)
私は欲しかったです! 小さいころにピアノと、大学の4年間で、部活で声楽とギターをしていました。とにかく、音をとったり、チューニングしたり、音がとれても次の日になると、また、音がずれていたり、それが自分ではわからなかったり……、大変苦労しました。絶対音感のある方の早いこと早いこと。
ただ、いまは鑑賞メインなので、絶対音感のある人が、微妙な間違いに敏感なのを見ると、いまとなってはないほうがいいのかなぁ、とも。
演奏をするならほしい、鑑賞側なら必要ない、と思います。
絶対音感より大切な感性があるのでは?(まやれい・兵庫・パートナー有・29歳)
ないよりあったほうがいいんじゃないかな、とは思います。ですが、合唱を始めたとき、絶対音感や音符が読めるかどうかよりも、もっと大事な感性があるような気がして。絶対音感のある私は、そのハーモニーがどんなに美しくても、いわゆる標準的なピッチとずれていると感じると、気持ちが悪くて仕方がなかったのです。それは、音楽で表現する上で、とてももったいないことだと思っていました。
私の能力がないだけかもしれませんが……。
言葉を越えたコミュニケーションスキルのひとつ(ウナギイヌ・北海道・パートナー有・31歳)
絶対音感は素晴らしい才能のひとつだと思います。言語よりも幅広く使えるコミュニケーションスキルになるのだろうなと憧れます。小さいとき、エイコさんという調律師の日本人女性が、楽器の調律をしながら外国を旅して歩き、いろいろな方々と触れ合うというテレビ番組がありました。海外の土地や人への興味を持ったきっかけとなったことを覚えています。
想像力を深めるための指針として(mcqueen・東京・パートナー有・31歳)
どんなジャンルの音楽でもいいのですが、音感があれば想像力も広がるし、理解も深まると思います。音楽関係の仕事をしていますが、普段なかなか聞かない演歌が好むメロディであったりとか、沖縄の独特の音階とか、理解するとその生活文化の背景もなんとなく理解できて、自分の幅が広がります。最相さんのご本はまだ読んでいないのですが(すみません……)想像力を深めるための指針として、絶対音感はあったらお得です。
絶対音感があると疲れることも(yukina・東京・パートナー有・41歳)
私は、不完全なのかもしれませんが絶対音感があるという部類に入るのだと思います。鳥のさえずりや日常生活の音までもすべてわかるわけではありませんが、楽器やそれに近い音だと、みな「ド」「レ」「ミ」と言葉で言われているかのように聞こえます。
自分にとっては小さいころから音はそう聞こえるのが当たり前だったので、ほかの人(家族)はそうではないとたまたま知った小学生のとき、すごく驚きました。ある意味貴重な能力だとは思うので、あった方がいいかない方がいいかといわれれば、あった方がいいかなと思いますが、全面的にYESでもありません。ピアノを弾くことが大好きなので、絶対音感があってよかったとか便利だとか思う反面、損しているような気がすることもあります。ひとつは、子どものころ、音楽の授業で調によって「ド」が変わってしまうやり方(なんというのか忘れました)が感覚的にどうしても受け入れられず、階名を書かされることがすごく苦痛だったこと。もうひとつは、夫がクラシック好きでしょっちゅう音楽をかけているのですが、私も本来音楽は好きなのに、そうやって常に音楽が耳に入ることがけっこう疲れるのです。それは、いちいち音名がわかって聞こえてしまう、つまり夫には漠として聞こえてているものが、私にはもっと構造化されて、まるで言葉に近いものとして聞こえているせいもあるのではないかと思うのです。そんなことをいろいろ考えると、あってよかったのかもしれないけれど、たとえば子どもに早期教育してまで身に付けさせたいものとは思いません。

外国語まで音符になってしまう不便さ(veronique・海外・パートナー無・31歳)
小さいころからピアノを弾いていたのと、合唱団に入っていたのが長いので、絶対音感はあります。先天的なものではなく、訓練で得られるものだと思います。たしかに音楽を演奏する上で音をとりやすいという利点はありますが、困ることもあるので、なくてもいい感覚だと思います。困るのは、音楽はすべて音符に起こして覚えてしまうので、逆に歌詞がなかなか覚えられないこと。したがって、歌詞を見て歌うカラオケができない(笑)。意味のわからない外国語が音符になってしまうこと。パソコンや家電製品が静かに立てているウィーンという音や蚊の飛んでいる音が音符になってしまい、イライラすること。このあたりのことは岡崎さんはどのように解消していらっしゃるのか、伺いたいです。
ないよりはあった方が、というのはどうかと思う(ゆん21・東京・パートナー有・27歳)
大学のオーケストラでヴァイオリンを弾いていましたが、もし完全な絶対音感があったら、さぞ不便だろうと思いました。曲の途中で、オーケストラ全体の音程が微妙に下がっていったり、上がっていったりすることもあるのですが、ごく微かな絶対音感(?)しかない私は、たとえ半音以上下がっても、どうにか同じ音として考えられますが、きっと完全な絶対音感の持ち主なら、頭の中で転調しないと気持ち悪いのでは? と思うし、音程を合わせていかなくてはならない場面では、「自分の音が正しい」ということは、何の役にも立たない気がします。
そもそも、一般の演奏家にとって、一体どんな場面で必要になる能力なのか、よくわかりません。困りそうな場面はたくさん思い付くけど、特に便利な能力でもないのでは? もしも、指導者になるのなら、ある方がいいでしょうけど、それを目指して訓練しているようでもなさそうですよね。
どんなものでも、ないよりあった方がいい、というだけで訓練すると、ほかの能力の成長に悪影響が出ることがないだろうか、ということが気になります。日本人の好きそうな、数値で測れる能力である絶対音感よりも、むしろ音楽の世界では、表現力とか、自分がどう弾きたいのか、といった、どちらかといえば日本人の苦手とする能力を、どう伸ばしていくのか、ということを、もっと考えるべきではないかと思います。