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第1回 フジ子・ヘミングさん


第1回 フジ子・ヘミングさん
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周囲の後押しもあり、留学に踏み切った |
新潟芸術文化会館での夜の公演後、フジ子さんに会うために楽屋を訪問した。
この日は、海外の交響楽団とのジョイントコンサート。フジ子さんの出番は、オーケストラのみの演奏が行われたその後だった。
開演前から会場は黒山の人だかりで、それは、周辺の道路までもが渋滞になってしまうほどだった。それでも、激しく降り出した雨のせいか、ほんの少しあった空席も、フジ子さんの登場にあわせてきっちり満席に。「固唾を飲んで・・・」というのは、ああいう状態を言うのだろう。お客さんたちが前のめりの姿勢になり、一瞬にして会場の空気がギュッと凝縮されるのが伝わってくる。そこにいるすべての人が待ちわびた、フジ子さんの生演奏。これほどまでに『感じさせてくれる』演奏家が、われわれと同じ国の精神が宿った血が流れるピアニストが、これまで存在しただろうか。 |
その後、東京行き最終の新幹線の中で、フジ子さんにお話をうかがった。フジ子さんは、少しお疲れのご様子。
「昨日の夕方、東京駅でカレーライスを食べて以来、なんにも食べていないの。ちょっと調子が悪くてね。汗びっしょりになっちゃったし。ふだんは汗かかないほうなんですけどね。」そんな不調を感じさせない、力強く心に響く演奏だった。
「会場中熱狂的な拍手でしたね。やはり、特別な気持ちになられますか?」との私の問いに、「名前が有名だからもらえるような拍手に惑わされるなって、ロバート・シューマンが何かの本に書いてましたね。それよりも大家の誉め言葉のほうが、ずっと確かだって。そのとおりだと思う。会場によっては拍手の響き方が違うし。拍手が多かろうが、少なかろうが、あまり気にしない。その日の出来とあまり関係ないだろうから」と、フジ子さんは、クールなお答え。
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何より私が気になるのは、フジ子さんがどうしてそんなにピアノに夢中になったかということだった。それは、私自身がいま、何に向かって進むべきなのか、模索しているからなのかもしれない。
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「ピアノが最高に楽しいと感じていたのは、自分勝手に楽譜を引きずり出して弾いていた、10歳くらいの頃だったかな。でも、小さい頃から、母に「これをさらいなさい!」と怒鳴り散らされて、好きでもない曲を弾くことがほとんどだった。人間っていうのは、押し付けられるとぜんぜん嫌なものよね。うんざりして、あまのじゃくになったりして」
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でも、フジ子さんがピアノを弾くことをやめなかったのはなぜなのだろう? 私はピアノの先生の厳しさゆえに、ピアノが苦手になった経験があるのだけど……。
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「それは自分に自信があったから。ピアノは好きじゃなかったけど、なんだか自信はすごくあったの」
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その自信は、どこから湧き出るものだったのか。フジ子さんが29歳のときにドイツへ留学されたのは、その自信が背中を押したのか。それとも、新たな何かを目指してのことだったのか。
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「きっかけは、さぁ何だったかしら? あの頃私は、原宿のものすごいおいしいシナ料理屋さんで、ほとんど毎晩のようにピアノを弾いていたんですよ。そのお店は、わりとお金持ちの人や、アメリカの駐留軍の将校さんが家族連れでくるようなところだったんだけど、とくにアメリカ人の人たちが、私のピアノ目当てによく店に通ってくれていたの。「アメリカに行って、有名になれ!」って、彼らに言われて、海外に行くならアメリカじゃなくて、自分が生まれたドイツがいいって思って決めたのが、留学のきっかけかな。」
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