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韓国は李ラインで実効支配へ
1952年1月、当時の韓国の李承晩(イ・スンマン。当時の日本は「り・しょうばん」と呼んだ)大統領は、「隣接海洋主権」を宣言します。韓国周辺の海域は韓国の領海であるとして、韓国周辺の海域に「平和線」を引き、「この線の中は韓国の領海だ」と主張したのです。日本はこの線を「李(り)ラインと呼びましたが、この線の内側に竹島が含まれていました。つまり李大統領は、「独島は韓国の領土だ」と一方的に宣言したのです。これ以後、李ラインの内側に入った日本の漁船は、次々に拿捕(だほ・捕まること)されました。中には韓国側から銃撃を受けて死亡する漁船員も出ました。
また、1954年になると、韓国は竹島に警備隊を常駐させ、灯台も建設しました。海上保安庁の巡視船が近づくと、銃撃されることも起きるようになったのです。それ以来、日本政府としては、外交交渉で解決をはかるという方針をとり、韓国による竹島の実効支配が始まったのです。
国際司法裁判所への提訴を提案したが
日本はその後、国際司法裁判所に提訴することを求めましたが、韓国はこれを拒否します。国際司法裁判所は、国家間の紛争を扱う国連の組織です。しかし、独自に調停に入ることはせず、紛争当事国の双方が了承して初めて審理に入る仕組みになっています。日本が提訴を提案しても、韓国は、「独島は韓国の領土であり、領土紛争など存在しない」と主張して、提訴を認めなかったのです。
こうして、韓国による実効支配の実績が積み重なっていくことになります。
日韓交渉では棚上げになった
第二次世界大戦後に韓国が建国された後も、日本と韓国の間には国交がありませんでした。国交を結ぶための交渉は1951年から始まりました。この日韓交渉では、日本の植民地支配について日本が韓国に賠償金を支払うかどうかが大問題になり、竹島問題は棚上げされてしまいました。竹島までも議論することになると、日韓交渉が行き詰まることは目に見えていたため、それを避けたのです。交渉の過程で、日本の外務省の首脳が、「竹島が日韓交渉進展のために邪魔になるのなら、いっそのこと爆破してしまえばいい」と発言したこともありました。
1965年、日本と韓国は日韓条約を結びました。日本は韓国に賠償金を支払わない代わりに、「独立祝い金」を贈ると共に、韓国の経済発展のための経済協力に資金を提供することで話がまとまったのです。竹島問題は、棚上げのままでした。
竹島周辺で漁船のトラブル続発
こうして、とりあえず竹島問題は棚上げしたまま、日韓は関係を深めていきますが、竹島周辺の海域では、その後も緊張状態が続きました。韓国は竹島を独島という領土だと主張していますから、竹島周辺海域も韓国の領海や排他的経済水域だと主張します。
排他的経済水域というのは、領海ではなく、他国の船が自由に往来できるものの、漁業や海底の資源採取などの経済活動をすることは、その国の許可がなければできない水域のことです。竹島は日本と韓国の両方が領土だと主張していますから、竹島周辺の海域も、双方にとって領海であり排他的経済水域ということになります。
そこで島根県の漁船が竹島周辺の海域で漁業をしようとすると、韓国の漁船と漁場を奪い合いになったり、韓国の警備艇が来て追い出されたりするということになります。
このため日本と韓国が話し合った結果……
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