体を張る韓国、帽子を拾う日本
藤田正美(ふじた・まさよし)
『ニューズウィーク日本版』編集主幹
2002年6月15日
ワールドカップで日本代表の歴史的快挙に日本中が沸いています。前回のこのコラムでは、ワールドカップ報道にあまりにも時間を割きすぎるテレビメディアに苦言を呈しました。世の中にまったく重要なニュースがないわけはないのに、あたかもサッカーがいちばん大事だといわんばかりの報道姿勢は、どうにも納得がいきません。
過去数ヶ月間に起きた重要な事件、あるいは現在進行形の重要なニュースが、サッカーのあおりで短縮されているのを見ると、こんなことでいいのかなと思ってしまいます。日本中を揺るがした瀋陽の日本領事館駆け込み事件も、すっかり人々の記憶から消えてしまったようにさえ見えます。「日本の在外公館は頼りにならない」と思ったかどうかは知りませんが、中国では韓国の公館に駆け込む北朝鮮の市民が後をたちません。
つい先日も、親子2人が北京の韓国大使館に駆け込んで、中国側と韓国側が激しくもみあうという事件が起きました。この映像がテレビで流れて、日本と韓国の対応の違いに愕然とした人も多いのではないでしょうか。日本のあの副領事ののんびりした態度、中国側に対する緊迫感のない対応を見て、国家の建前すら守れない外務省という印象を強くもちました。それに比べると、あの韓国大使館員が背広を破られたり、殴られたりしながらの抵抗に、在外公館員の望ましい姿を見たような気がします。
もちろん逃げ込んできたのが北朝鮮市民ですから、韓国にとっては日本などとは違う特別の感情があるのかもしれません。日本にとっては「厄介者」でしかありませんが、韓国にとっては「引き裂かれし同胞」であるからです。しかしそれだけでは日本の外務省の対応を説明しきれないでしょう。国家の代表としていかに行動すべきか、というところの基本が違うように思います。
大使館内で起きたことは、その国の主権の下で処理するのが原則です。それが条約で定められた「国家の権利」であるわけです。もちろんその処理のなかには、大使館の置かれた国に引き渡すという選択肢も残ります。たとえば、その国で犯罪を犯したものが、大使館に庇護を求めてきた場合、自国民として国に連れかえって裁判にかけるか、相手国政府に引き渡すか、それはそのときの判断によるでしょう。その犯罪が、「政治的」なものである場合は、とりわけ微妙な判断になります。
いずれにせよ、大使館内のことは大使館が責任をもつべきものという原則は変わりません。原則を体を張って守ろうとした韓国と、原則があるかどうかさえわからないような対応しかできなかった日本。この差はあまりにも大きいように思えます。この外務省のていたらくは何が原因なのか。ここには戦後日本の国家観が凝縮されているのかもしれません。戦後、日本では国家を前面に出すと、それだけで「右翼」あるいは「軍国主義」というレッテルをはられてしまいました。それは戦争を引き起こしたのが「軍部=右翼」であったという見方が強かったからです。そのおかげで、国家とは何かを真剣に議論する機会が失われてしまいました。
憲法9条が「金科玉条」になってしまったのもそのためです。いまようやく憲法をどうするかという議論が行われています。戦争をしない、という大前提はいいとしても、「戦争を放棄」すればそれですむのかという議論は必要です。今回の国会では成立しそうもないいわゆる「有事法制法案」も、実はこのような議論なしに進めるわけにはいかないものなのです。国家とは何なのか、個人としての国民はその国家にどのように関わるべきなのか。そうした議論こそ今必要だと思います。政府だけに都合のいい有事法制や個人情報保護の法案は、この際廃案にして、もう一度国民的なレベルで法律を考えたほうがいいのではないでしょうか。