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第12回(4) 2006/01/31
中東問題―土地の奪い合いが続いた
【 happykingさん(東京都/会社員/34歳/女性)からのギモン】
パレスチナ問題は、何が原因で、どういう経緯をたどってきたのですか? また、この問題が世界や日本に与える影響も教えてください
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<3ページ目からの続き>
しかし、この和平案を推進したイスラエルのラビン首相は、国内の反対派の過激派青年によって暗殺されてしまいます。和平を実現すると、国内の反対派から暗殺されるということが、再び繰り返されたのです。
その後、和平への動きは一進一退を続け、なかなか進みませんでした。
シャロンが和平への動きを止めた
それでも、イスラエルが労働党政権のバラク首相の時代、和平が進むかに見えたのですが、2000年9月、反対派政党であるリクードの党首だったシャロンが、イスラム教徒の聖地である「岩のドーム」がある丘に足を踏み入れます。パレスチナ人に対する挑発行為でした。
怒ったパレスチナ人とイスラエルの治安部隊が衝突し、和平への動きは一気にしぼんでしまいます。パレスチナ人の抗議行動を恐れたイスラエル国民は、強硬派であるシャロンを支持し、首相に押し上げます。シャロンは、自ら和平の動きを壊すことで混乱を作り出し、その混乱に乗じて首相の座を確保したのです。
こうして首相になったシャロン。しかし、強硬策をとればとるほど、パレスチナ人の抗議行動は高まります。この混乱を見かねたアメリカとロシア、EU、それに国連が入ることで、2003年6月、新たな中東和平への「ロードマップ」が作られました。イスラエルがガザ地区とヨルダン川西岸から完全に撤退して、イスラエルと平和共存するパレスチナ国家を建設する、というものです。
この「ロードマップ」にもとづき、去年の夏になって、シャロン首相はガザ地区に駐留していたイスラエル軍を完全に撤退させました。さらに、ガザ地区に入植していた(住み着いていた)ユダヤ人もイスラエル側に追い出すという行動に出ました。パレスチナに対する強硬策一本やりでは解決の糸口が見えないことを痛感したシャロンが、パレスチナとの和平に本気になったものと受け止められました。
シャロンの行動に対して、シャロンが所属していた政党リクード内部から批判が高まると、シャロンは党を飛び出して、新党の「カディマ」(前進という意味)を結成しました。イスラエルでは今年2006年3月に総選挙があります。新党で選挙を戦い、国内の支持を固めた上で、パレスチナとの和平に進む。これがシャロン首相の戦略でした。それが、突然の脳溢血で、挫折してしまったのです。
前回も書きましたが、いったんは強硬派が首相に就任するものの、強硬策では解決にならないことを悟ると、和平への道を進む。しかし、それが途中で挫折する。中東では、この繰り返しでした。シャロン首相に関しても、同じことが起きてしまったのです。
パレスチナの過激派ハマス
1月25日、イスラエルとの和平に反対するパレスチナの強硬派であるハマスが選挙で勝利したというニュースがありました。このハマスとは何か。そもそもイスラム過激派とは、何か。
次回は、もし想定外のことが起きなければ、この問題を取り上げましょう。ますます『千夜一夜物語』みたいになってきましたね。
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